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墨染に咲け
「ふかくさの のべのさくらし こころあらば
ことしばかりは すみぞめにさけ」
── 『古今和歌集』 832
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映姫 「貴方が私を避けずに居るなんて殊勝な事です」
紫 「いつも貴方が居ないだけですわ」
映姫 「誰が知らなくとも天が知っています。
いつか貴方の二枚舌を抜かねばならないと思っていました」
紫 「極上ですよ。どうぞ、この舌の根が乾かぬうちに」
映姫 「……この桜を、見ていたのですね。
罪の色に咲いた紫の桜。赤にも青にもなれず、
陽の光に負けて月の光にも拒まれた浮かばれぬ魂。
無縁の孤独が、桜を死の色に染め上げた」
紫 「とても、高潔な色ですわ」
映姫 「霊は花に宿り、咲いているだけで生を満たします。
しかし、この桜はなおも死の呪縛から離れようとしない。
これほど強い思念をもった魂を、私は知らない」
紫 「これは、私の罪でもあるのです。
ある事実を楔として、この桜は罪の色に咲き続けるでしょう。
でも、私はいつか忘れてしまう。何故紫の桜がここにあるのか。
何故桜が紫色に咲くのか。私は全部忘れてしまう。
忘れないうちに、私が私であるうちに桜を眺めていたい。
貴方が来て逃げるような私では、申し訳が立たないのです」
映姫 「妖怪である貴方が、人間時間の一瞬の出来事を刻もうとしても
苦痛を背負うだけです。人間と妖怪は同じ時の中で生きられない。
その境界を踏み越える事こそが罪なのです。
貴方はそれを知りながら、ある人間を想い続けようとしている。
そう、貴方は少し優しすぎる」
紫 「……」
映姫 「しかし、その罪を自覚することは善い事です。
その舌、今は釘を刺すに留めましょう。貴方の言葉は、
人の理解を阻もうとも、天は一切を理解するでしょう」
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深草の 野辺の桜し 心あらば 今年ばかりは 墨染に咲け
(深草の野辺の桜よ。
心があるならば、今年は弔意を示して墨色に咲け)
── 上野岑雄
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