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学を断てば憂い無し
── 『老子』 第二十章
「完全に穢れの無い世界を作りたい?
簡単よ。考える葦が、考えることを止めれば良い」
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慧音 「つまり、無何有浄化というものは──」
天子 「あーうー」
慧音 「……こらこら、何で筆記具を仕舞うんだ」
天子 「永江が腕利きの家庭教師を、何て言うから呼んでみたけど、
やっぱり貴方の話はさっぱりだわー。全然判んないもん」
慧音 「噛み砕いて説明しているはずなのだがね」
天子 「もう粉々ね。粉末になっちゃって、見当も付かないよ。
大体さ、『無何有』を掘り下げて何の意味が有ると言うの?」
慧音 「いや、『無何有の郷』を表した荘子の心境をだな……」
天子 「あーあ、学問って何なのかしらねー。
学べば学ぶほど、迷いの種が増えるだけ。
学問なんてものは、ただ自信を付けるための虚栄だわ」
慧音 「それは……」
天子 「いっその事、学ぶことを止めちゃえば良いんじゃない?
そうしたら、こんなに苦しい思いをしなくても良くなるのにね」
慧音 「……学を断てば憂い無し。老子か」
天子 「あら、そんな便利な言葉があるのね。
私にぴったりじゃない。勉強なんて辛いだけよー」
慧音 「貴方は──、それほどの教養を持っていながら、
どうして自分の価値を下げるような振る舞いをするのです」
天子 「自分の価値を決めるのは、この私。
貴方の言う『無何有』って、そういう事じゃないの?」
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学ぶことを止めたならば、迷う事も無くなるだろう。
「はい」と「うん」に、一体どれほどの違いがあるだろうか。
人が言う善と悪には、どれほどの違いがあると言うのだろうか。
── 『老子』 第二十章
「学」を修める者は、日に日に知識を増やしていくが、
「道」を修める者は、日に日に知識を減らしていく。
減らしに減らしたその果てにこそ、無為の境地は存在するのだ。
── 『老子』 第四十八章
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